膝の丈ほどに伸びた湿った叢を踏み付けると、夏の匂いがする。横歩きしながら登っているのに、緑色に覆われた斜面はときどきズルッと滑る。子供のころはそんなことはなかったのに、そう思いながら平坦部まで上がると、この小さな丘には、先客がいた。
その初老の婦人はぼくが叢を踏む音に気付いて振り返り、ぼくの姿を認めるとちょっと驚いたような表情を見せた。けれども、小さく会釈をしたあと再びむこうを向いてしまった。
ぼくは彼女の邪魔をしないように、丘の先端のなつかしい自分所定の位置に立った。
丘は3メートルほどの高さで、頂上の平坦部は5メートル四方ほどの小さな築山だが、ここから眺めれば滑走路の全部が見渡せる。
南北に走る灰色の帯、遥かむこうの南端の方はゆらゆらと陽炎に揺らめき、そのまま空に続いているように見える。その揺らめきの中をタキシングしていく海上自衛隊の対潜哨戒機のシルエットと、新しくなった管制塔、いくつかの大きな格納庫を除けば、少年時代の光景とほとんど変わっていない。あのころここにはまだ航空自衛隊がいた。T33やT6練習機がぼくの目の前を進入してきて、タッチ・アンド・ゴーを何度も何度も繰り返して……。
「飛行機がお好きなんですか?」
不意に声をかけられて、彼女が私の隣に並んで立っているのに気づいた。
「あ、ええ……。小学生のころほとんど毎週来てたんです。ほら、あの翼のところと尾翼にランプが付いてるでしょう。あれがピカピカ見えるくらい暗くなるまで、見てたんです」
「それじゃ、近くにお住まいが……」
「いえ、ぼくが中学3年のときに親の転勤で引っ越しまして、ここに来るのは……20年ぶりなんです。たまたまこの市の法務局に用事があって、ここがどうなってるかなって」
自分の懐かしい場所に立っているせいか、見ず知らずの婦人相手に饒舌になってしまっていたようだ。
「あなたも飛行機が?」
「私は飛行機はダメなんです。ジェット機の音はまだいいんですけど、プロペラ機の音を聞くとちょっと」
「じゃ、どうしてここに……」
彼女は、夢を見るような表情になっていた。
「私、この飛行場で空襲に遭ったんです」
「空襲?」……ぼくにはとっさにそのイメージが浮かんでこなかった。
「私たち女学生は勤労動員で、あそこのN飛行機の工場で働いていたんです。四式戦なんかを組み立てていたんです。そしたらあの日の夕方、B29の空襲がありましてね。ほとんどは市街地がやられたんですけど、この飛行場には艦載機が何波も飛んで来て、機銃掃射で……ね」
ぼくは意外なイメージを突然つきつけられたようで、もう彼女の話を黙って聞いているしかなかった。
「私、65歳になるんで年金の相談にいったんです。住んでいるのは福島県なんですけど、市役所へ行ったら、社会保険事務所へ行くようにって。なんでかしらと思いながら行ったら、『終戦後勤めたことがありますね、そのときの厚生年金が加算されます』って。『もう少しで5年経過で、時効になってしまうところでしたよ』って言われたんです」
ぼくはこの唐突な話の転換に、彼女が何を言いたいのかよくわからなくなっていたが、なんだか最後まで聞かなくてはならないような気がしていた。
「私は農家に嫁いでずっと国民年金だったから、そんな昔の勤めに意味があるなんて考えもしなかったんです。N飛行機が民需転換するというんで、勤労動員の経歴もあるから女工にならないかって言われて、あそこで5年ほど働いていたんです」
彼女の指さす林の向こうにはF重工の大きな自動車工場が見えた。
「それじゃ、ここが懐かしくなってやってきた、というわけですか」
「いいえ、懐かしいとかそういうんじゃなくて……私はすっかり忘れてたんです。というか、忘れたふりをしてたんです。それなりに幸せでしたから。でも、社会保険事務所でそう言われたときに、いっぺんに全部思い出しちゃって。この飛行場でミッちゃんやトシ子ちゃんやツヤちゃんたちと一緒に働いて、この丘に登ってお弁当を食べて……そしてみんな……あの空襲で亡くなったんです」
「………」
「50年です。今日で50年。私は生き残って、結婚して、子供を持って、今は孫たちもいます。でもミッちゃんたちはそれもできなかった……。忘れていてごめんねって、それが言いたくて、ここへ来たんです」
彼女の表情は、悲しみとか後悔とかいうものではなく、なぜか言いようのない不思議な清々しさが漂っていた。
戦後生まれのぼくには実感のないことだったが、その話はズシリとこたえた。それよりも、ぼくの少年時代を今でもあざやかによみがえらせてくれるこの場所が、この婦人にとって重要な意味を持つ場所でもあって、今日、互いに時間を超えてこうしてふたり並んで滑走路を眺めている、という事実に、胸が締めつけられるような思いがした。
背後に、ふと気配を感じた。白いブラウスにもんぺ姿の少女たちが、弁当を広げながらさんざめいているような、そんな気配が。振り向いたら、もしかして本当に少女たちがいるのかも知れない……思わず振り返りそうになる自分の頭を強引に押しとどめた。いてあたりまえじゃないか、だって、この人がこうしてやって来たんだから……。
いつの間にか陽射しは西に傾いていた。建物の影に入ったP3C哨戒機の赤と緑の翼端燈がピカピカしてきた。でもそれははっきりとは見えず、なぜかやけに滲んでいた。
(月報司法書士 1995年6月号掲載)
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