第14話 続・明るく楽しいわが事務所     作・小林隆雄
「慈円く〜んは、ま〜たまたふられたんだって?」
 みさえの無慈悲な、鬼のような言葉に、慈円は顔面を蒼白にしたが、「登記所さ行って来ます……」とボソリとつぶやいて事務所を出ていってしまった。私はみさえを諫めようとしたが、ターやんが先に口を開いた。
「違うんですよ、あいつはまだふられたわけじゃないんだ」
「あら、ターやん、だって『またダメだあ』とか『もーダメだあ』とか唸ってたわよ」
「例の保母さんが、田舎に帰っちゃうっていう話なんです」
 登記所への道の途中に保育園があって、子供好きな慈円は仕事中ときどき子供たちと遊んでいたようだった。そこの可愛い保母さんと、結構いい雰囲気になっていたらしい。
「田舎のお父さんが大病してしまって、介護の手がないんで、帰るんだそうです」
「あら、あの娘のお父さんていったら、まだ若いんでしょうにねえ、大変ねえ、可愛そうねえ」
 みさえは鬼から仏までの振幅もはげしい。
 たしかあの娘はひとりっ子だとか、慈円から聞いたことがある。親がまだ高齢者にならなくても、いつ何どきそういう事態に至るかも知れないんだなあ。私は郷里に兄がいるが、父はひとり暮らしをしている。こういう問題は先送りしても、いつかは直面しなければならない。
「ターやん、君のところは奥さんもひとりっ子だと言ってたなあ」
「ええ、両方ひとりっ子だから将来はどっちの親と同居するかとか、お墓をどうするとか、別姓がどうとか、そういう類の話はしょっちゅうあるんです」
 こういった話題にみさえは敏感で、今度はたちまち説教オババに変身する。
「だからターやん、あなたたちも子供をひとりだけなんて言わないで、もっとジャンジャン産まなくちゃダメよ」
「でもねえ、大企業ならいざしらず、妻の勤めは中小企業で、立法化された育児休業だって、すごい負い目を感じながらとったんですよ。今の世の中で働く者にとって、現実は本当に厳しいんです」
「それじゃターやん、あなたがもっとしっかりしなくちゃね!」
 途端にターやんの目がすわった。
「給料、あげてくれます、か?」
 ヤブヘビを感じたみさえは、いつものごまかしの手口に転じた。サッと紙をとりだし、マーカーでさらさらと図を描く。
「いい? ウチの事務所には大人が4人、ターやんの奥さんを加えて5人。子供はわたしたちが2人、ターやんたちが1人、慈円くんは、ゼロ……。ほら、計算してごらんなさい。大人と子供の比率が5対3で、数字にすれば……(カチャカチャ)1.67人! 勝ってるわ。日本の平均1.42人より高いでしょう! ターやんちの子供は1人でも、慈円くんがこのままズーッと独身で、生涯寂しい寂しいひとり身を通したとしても、まあいいか、ってとこね」
「みさえさん、それって『まあいいか』じゃなくて、『まあ! いい加減!』じゃないですか。1.42人とは合計特殊出生率といって、1人の女性が生む平均の子供数ですからねっ」
「あらそう?(カチャカチャ)それなら、わたしと君の奥さんの2人で生んだ子供が3人、答えは1.5よ。これでもとりあえず勝ってるわ、文句ある?」
 なんだかわけのわからない話はふたりで勝手にさせておくことにして、私は仕上げた書類を鞄に納め、事務所を出た。
 お彼岸も間近というのに暑い秋の陽ざしの中を歩きながら、私は知らず知らずのうちにさっきの与太話を反芻していた。
 待てよ、もしも夫婦2人からひとりっ子が代々続いたとしたら、いったい何年後にどうなっていくのか。
 仮に次の世代の子供が生まれる周期を25年としよう。2人とも100歳になったとして、
 75歳の子供で半分、
 50歳の孫で4分の1、
 25歳の曾孫で8分の1、 なんと、次に生まれる曾々孫は16分の1……、6%強でしかないのか! 100年たつと、50組=100人の先祖の子孫がたった6人にまで減ってしまう。
 そいつはまずい。こんなこと改めて考えたこともなかったが、こいつは結構深刻な話だったんだ。
 登記所へ続く短い坂を登りきると、保育園の庭が見えた。小さな子供たちの中にいると余計に目立つ慈円の大きな背中が、ユッサユッサと揺れている。子供たちの歓声がここまでよく聞こえてくる。
 私は立ち止まって額の汗をぬぐい、煙草に火を点けた。
 子供たちの輪の中にあの保母さんの姿も見える。
 彼女も慈円も楽しそうなんだか寂しそうなんだか、ここからは表情まではわからないが、ふたりの周囲を走り回る子供たちの姿が、声が、キラキラと輝いている。
 不意にだれもいない園庭の情景が目に浮かんだ。セピア色にくすんだ無人の保育園、だれもこいでいないのに、カランカランと風に揺れるブランコ……。まさかそんな日がくるなんて、この子供たちの姿が消えてしまうことなんて、あるわけがない。そうさ、人間そこまで愚かじゃないさ。
 子供たちの声がひときわ高まり、慈円がコケて地面にでかい図体がゴロゴロと転がるのが見えた。風向きが変わって、煙がちょっと目にしみた。

 (月報司法書士 1997年9月号掲載)
  ひとくちメモ
 このストーリーを書いた当時の1997年に1.42だった「合計特殊出生率」は、また記録を更新してしまいました。2003年6月5日に厚生労働省が発表した人口動態統計によれば、2002年には1.32。これは戦後最低の数字です。
 加えて、これまで晩婚・晩産化と非婚化が進むことによって低下していた出生率は、現在では結婚している夫婦の出生意欲までが低下し、下降を強めていると報じられ、豊かな時代に育った世代が子育てのコスト高を敬遠している、とさえ言われています。
 失業率の悪化、フリーターの増加等という直接的なマイナス要因、さらに銀行や生命保険をめぐる諸問題……、いずこを見ても暗い話題がつきまといます。若い世代が結婚しない、子供をもてない、子供をもつことを敬遠する、ということを、簡単には批判しにくい状況です。
 でも本当にこのままで良いのでしょうか。
 一度冷静に整理してみましょう。現在の日本は今まで経験したことがない新しい領域に突入しています。これほどの長寿社会はかつて存在しませんでした。しかもこの長寿・高齢社会は、それなりに豊かなものがあります。「子供には頼らない老後」という言葉を耳にするのは、その豊かさゆえでしょう。しかしそれは現在の高齢世代の努力の蓄積ばかりではなく、成熟した社会保障に多くを支えられていることを、失念している言葉のような気がします。たとえばピークを迎えた被用者年金は、間違いなく現在の現役世代の存在によって維持されているもので、これまでの世の中が、「家族の扶養」から「社会的な扶養」へと進歩してきた証拠ではないでしょうか。
 今後もし経済の困難な状況が当分続いたとしても、今の現役の後半に当たる世代はまだ、これまでの社会の余力をもとに、世代間扶養に自助努力などを組み合わせて、ある程度はしのぐことができるでしょう。しかし現役前半の若い世代は、現在の幼い世代やまだ生まれてきていない世代=少数の世代に、もはや頼ることができないのです。
 「老後」は現在の高齢者だけのものではなく、現役世代にも必ず訪れます。現在の幼い世代は、そのころは社会の中枢を支える現役世代です。しかしその世代が、そしてそれに続く次の世代が、さらに減少し続けるとしたら……。これはもはや、単に経済の問題などでは語れない深刻な事態、日本社会の存続、文化の存続自体の問題です。
 私は「少子高齢社会」についてよく話題にしますが、たいていの方は「ふうん……」という反応で、ほとんど実感を持たれません。しかしそれにめげずに、同感してくださる方、危機感を持ってくださる方が1人でも2人でもいいから現れてくれることを願って、今後も警告を発し続けようと思っています。