一歩踏み出すごとに表面の固まった雪がザクザクと砕け、朽ちた倒木や湿った落ち葉が純白の間から茶色い顔を出す。熊笹の葉を踏んでズルッと滑った長靴に、かなりの雪が入り込んだ。
なだらかな斜面だが、雪の積もったヒノキ林の中を小学生のぼくが祖父の後を追って登るのは、かなり骨がおれた。祖父についてお使いに出かけた帰り道、「山を見ていくぞ……」というので仕方なしについて来ただけだから、泣きごともちょっとは言いたくなる。
でも、木々の間から差し込む陽光が雪の表面にいく筋もキラキラと波打って輝き、それとは対照的に葉叢の裏側が一層沈鬱な暗さを増して、時おり飛び立つ鳥が揺らす枝から雪がドサリと落ちて光の筋をかき乱し、金色と白と暗黒のコントラストをもつれさせる光景は、神秘的にして敬虔なものだった。光と闇の世界の境界線を旅しているようなワクワクした気持ちになって、胸の奥のほうがむず痒かった。
太い幹の列の間をしばらく登っていくと、いきなり視界が白く開けた。ヒノキ林を抜けて、100メートル四方ほどの雪原の縁に出たのだ。雪原の向こう端は、そこから先がスッパリと切り落とされたように明瞭な地平線となって、群青色の空と接していた。
祖父はその雪原の中で、あちこちに小さく盛り上がった雪のてっぺんを手でかいていた。祖父の太い腕が一かきするたび黒っぽいものが顔を出す。よく見ると全部の盛り上がりの雪をかいているのではなく、いくつかを選びながらやっているようだった。
「じいちゃん、何してる?」
「ああ、ここのヒノキは苗木を植えたばかしだからな、雪の表が凍って固くなってしまうと、元気なやつは放っておいても平気だが、中には曲がったり倒れたりするやつが出てくんだよ」
「ふうん……」
ぼくは祖父の真似をして、片っ端から盛り上がりの頭の雪を払いながら歩いた。ぼくは祖父のように一かきというわけにはいかず、二度、三度とかくと、ブルンと揺れながら小さなヒノキの頭が顔を出す。手袋はたちまち雪にまみれ、冷たい冷たい水となって毛糸の間をしみ、指先をジンジン凍えさせた。
斜めにさす陽光は林の中とはまるで違って、ぼくの周囲を眩しくあばれ回っていた。今登って来た斜面の下のほうを振り返ると、ヒノキの子供たちがいくつも顔を出し、その間を二筋の大蛇が這ったような跡が、後方の林から自分たちのところまで続いていた。
「ねえねえ、このヒノキ、いつになったらあの林みたいにでかくなるの?」
「そうだなあ、あんたらが大人になって、あんたらの子供が婿さんになったり嫁さんに行ったりするころには、ちょうど差し支えない太さになっぺよ」
祖父の答は、今のぼくにはちょっと想像するのが難しいものだった。
「……んじゃあ、太くなったらどうすんの?」
「ここの山は、この前あんたの叔父さんが家を建てるっていうから切り出して売ったんだ。だから今度は叔父さんが苗木を買って、俺が植林したんだよ」
「そんじゃこれは叔父さんの山になるの?」
「一族のだれかが必要になったときには売れる木を切って、そこに新しい苗を植えて、そいつがでかくなったころにはまた別のだれかのために使うのよ。今抜けて来た山は俺が50年くらい前に植えたもんだし、あっちの山は、母屋を直した後にあんたらのお父ちゃんが植えたもんだから、20年にはなるなあ」
……50年はおろか20年だって今の自分には遠い過去の話で、ぼくは戸惑うだけだった。
祖父とぼくはいつの間にか雪原の端に達していた。さっき地平線に見えたところは、尾根筋の稜線となって左右に長くのびていた。眼下には急斜面にビッシリと堂々と幹を伸ばす針葉樹林が、その向こうには折り重なるように連なる山々が雪をかぶり、さらにその向こう、煙るような遠方には、平野部がどこまでも青白く広がっていた。
「この下の杉林は、俺のじいさまが慶応年間に植えたもんだから、もう100年以上にもなっぺかな……」
ぼくはこの雄大な光景に心打たれるだけでなく、祖父がさっきからこともなげに話す時間のスケールの大きさに驚いていた。はっきり言って混乱していたのだ。
でも何かが、胸の奥底で動きはじめていた。たぶん言葉にすることは難しいけれど、もしかすると自分はただ一個の自分自身なのではなく、先祖から子孫へと続いて行くための中間点の苗木なのだと、しかもぼくが存在しなければ、このぼくに続く系列の時間の流れはここで止まってしまうのだと、漠然と感じることだけはできたのだった。ぼくは急に、自分が大人に近づいたような気がした。
(月報司法書士 1998年2月号掲載)
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